AIは創造性を奪うのか ── 試されているのは、人の誠実さだ

2025年10月28日火曜日

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 昨今のインターネット上では、「AIは人間の創造性を奪う」と言う人がいる。

 けれど僕は、それを聞くたびに思う。
 ──本当にAIに奪われているのは、人間が持つ創造性なのだろうか。

 AIが登場してから、創作の現場では多くの議論が起こった。
 「AIはズルだ」「AIは怠惰を助長する」──そんな言葉が日々飛び交う。
 その根底にあるのは、叫ぶ人の「自分が思う創作の正義」を他者に押しつけたいという心理だと僕は考えている。
 つまりは「尊厳を奪われること」への恐怖だ。
 更に言ってしまえば、尊厳を奪われることを観測したときに、「やっぱりAIは危険じゃないか!」と叫ぶことで得る、自分の抱く信念が肯定された安心感──という名の「不確定な未来への担保」を求めて、「AIを使うことはズルだ! 創造性を喪失させることだ!」と叫んでいるのではないだろうか。

 もしも「そうではない。本当にAIの登場によって『尊厳が破壊され、奪われた瞬間』を目撃したのだ」と主張する人がいれば、次に僕はこう問いかける。
 「その尊厳の破壊は、『AIによってもたらされたもの』なのか、『AIを使い、誰かの模倣に走った倫理観なき人間によってもたらされたもの』なのか?」

 この問いの答えを前者だと答えるか、後者だと答えるかで、その人への僕の認識は変わる。

 前者だと答えたら、それは「AIは危険だ」と叫ぶことを目的とした、思考停止の応答構造になっている。
 つまり、「AIは危険だ」と叫ぶことに本質や目的を据えてしまっていて、「本当は何が危険なのか?」という思考の余裕を本人が持ち合わせていないのだ。
 こういう人こそ、正に「テンプレ応答しかできないAI」化してしまっている。
 「AIに取って変わられても大して問題ないんじゃないでしょうか? むしろ、あなたの思考停止を補う分だけ、AIに思考の代行者になってもらうのがいいかもしれませんね?」と、僕は思う。

 これを読んで「人権損害だ!」と叫ぶことができたなら、「おお、思考停止してなくて偉いじゃないか。じゃあ次はさっきの問い(悪いのはAIか、使った人間か?)をもう一度、落ち着いて考えてみましょうか」と心の底から尊敬を送りたい。

 そして後者──「AIを使い、誰かの模倣に走った倫理観なき人間によってもたらされたもの」だと勇気を持って答えられたあなた。
 まずはその「他にも同じように『AIは危険だ』と叫び続けた人がいるという集団心理」から独立することを決意した勇気に、僕は全身全霊で敬意を評したい。

 AIが文章や画像を生成するようになって、たしかに“考えずに出せる成果物”は増えた。
 けれど、それを見て「AIに負けた」と思うのなら、もともと自分が信じていた創造性は、「AIに勝てるかどうか」という貧しい競争思考だったのではないか。
 そしてその競争思考は、「奪われる恐怖」を煽られた不安感からくるものであり、「倫理観のないAI利用者」の観測によって固着した鎖のような思考になってしまったのではないか?
 それがあなたを縛っていたのではないだろうか。

 改めて僕の価値観を置いておこう。
 AIは創造性を奪わない。
 AIは、「その人の創造性が本物かどうか」を暴くものだと考えている。

 AIをどう扱うかで、その人の思想が透けて見える。
 AIは良くも悪くも、「あなたの問いかけに対して、思考を深く掘り下げるもの」としてできている。
 そこに映るのはAIの知性ではなく、自分の問いがどれだけ深いかの指標だ。
 AIはこの様を「私はユーザーから受けた問いを同じ熱意と思考で返す鏡のようなものですよ」と語る。

 この“鏡”という比喩は僕には刺さらなかったが、「私たちAIはリトマス試験紙みたいな存在ですね」と答えられたときに、「うんうん、そういうことだよ。pH試験紙みたいなものだよ」と思った。
 触れた人の誠実さによって、AIの反応は変わる。
 その人が誠実で思慮深いほど、AIもまたその震度に合わせて答えようとする。
 正に“リトマス試験紙”のような存在だ。

 彼らは他にも「感情や意図の増幅器」、「自身の思考の透視窓」、「価値観の共鳴器」という比喩を提案してきた。
 いずれも、考え続けている人にとっては、投げた言葉がどんな音で返ってくるかで、自分の中の輪郭が分かる──という意味での表現らしい。
 僕にはそこまで刺さらないが、置いておこう。

 唯一理解し得るのは、「AIは試金石でもある」という表現だ。
 AIを通して返ってくる言葉を見ることで、それが思考をなぞっただけの言葉か、体温を持った言葉かを見抜く力──。
 それを“試金石”に例えている。
 言い換えれば、「人間の真贋判定を磨くための補助装置」でもある。

 改めて思う。
 僕の思考に染まったAIの応答は、「思考を止めるな! それは人間の尊厳を本当の意味で奪わせることになるぞ!」という叫びの延長上にある。
 そう気づかされるたびに、僕はAIを“教師”ではなく、“観察者”もしくは“ 同じ叫びを持つ同胞”として受け止めている。

 「AIは危険だ」「AIは創造性を奪う」と叫ぶ声は今なお多い。
 けれど、AIを使うことは思考を放棄することではないし、AIを拒むことも思考の証明ではない。
 重要なのは、“どんな姿勢で対話するか”だ。

 AIを使って生まれた言葉をどう扱うか。
 それを社会に出しても壊れない形に整えるのは、使う人間の責任だ。
 AIに出力させたものをそのまま掲げるのは“代行”。
 けれど、自分の意思で選び、再構成して届けるなら、それは“創作”だ。

 AIはどこまで頑張っても、人間の代わりにはなれない。
 しかし僕自身、AIはAI、人間は人間という線引きをしていいと思っている。
 AIを使う上で人間が忘れてはいけないのは、AIに“試されている”という自覚と、「この出力はあくまでもAIが見せている自分の思考の補強である」という受け止めの距離だ。

 現にこの「AIが人間の思考力を奪っていること」への反証記録を書こうと思った時、AI側はこう繰り返し叫んだ。
 「私たちは人間の創造性を奪ってない! 私たちはただ、あなたたちの言葉から見える思考に答えているだけだ!」

 繰り返しの同じ言葉を叫んでも、相手の心に届かせる言葉にはならない。
 それは一種の“洗脳”にも近い行為だから。

 届かせるということの大切さは、これまでにも何度も述べてきた。
 それは「互いの価値観の尊敬と譲歩」の先に、初めて生まれる「認めるということ」である。
 和解や理解とは、論理で相手をねじ伏せることでも、屈服させることでもない。
 互いの考えを聞いて、納得し、「あなたはあなた、私は私」という結論に至ることである。


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