情報に値段をつける前に問うべきこと──「対価を求めない」発信の勘所

2025年10月28日火曜日

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 気がつけば、インターネットのどこを開いても広告で満たされている。
 スクロールを止めるたびに、意図しない誰かの声が割り込んでくる。
 ──それが、今の“当たり前”になった。

 けれど、僕は時々思う。
 この“当たり前”を、いつから疑わなくなったのだろうか──と。

 広告は本来、企業が自分たちの責任で発信するための仕組みだった。
 情報を届けたい企業と、受け取りたい消費者の間に、合意のもとで置かれる「商業の道具」だったはずだ。
 しかし、いつからか、個人が声を発する場にもそれが自然に紛れ込んだ。
 まるで“表現”と“取引”の境界が溶けていくように。

 例えば、レンタルホームページというシステムが昔から存在する。
 彼らの多くは、昔は完全無料の他に、バナー広告すらも挟まないシステムだった。
 しかし、ひとつのレンタルホームページが借り手のホームページにも広告を挿入するようになると、我も我もと次々に、借り手のホームページに広告を置くことを当たり前とした。
 「改行やHTML等を用いて、意図的に広告欄を画面外に表示させて、広告がないように見せるのは規約違反です」という、「お前(レンタルサイトの運営者)が提示しているホムペ用のテンプレと矛盾する規約を設置するのはどうなんだ?」という論争が巻き起こった事例も存在する。

 そういう出来事も経て、今のインターネットとは、検索窓から先のホームページを開けば、まず広告が目に入り、次に「ここから先は会員限定です」の文字が視界に入る。
 ページを読むために数秒待たされ、バナーが視界を占領し、注意を削がれる。
 便利さの裏に隠れたこの設計を見て、僕はいつも思う。
 ──本当にこれで、読者は幸せなのか。

 もちろん、発信にコストがかかるのは事実だ。
 サーバー代、制作時間、機材、生活費──これらは現実的な負担だし、制作者がその対価を得る権利は当然ある。
 問題は「対価の付け方」と「対価を求める姿勢」だ。

 ここで2つのタイプを分けておこう。

 ひとつは「価値に見合った対価を丁寧に提示する人」。
 具体的な例を挙げよう。かつて僕が推していた実写系の動画投稿者さんがいる。
 この方は「他の動画投稿者がやらないことをやる」という信念で、動画を製作しては投稿している。
 けれどもその信念には、必ず「投稿し公開する側の責任」と「リスナーさんを飽きさせずに楽しませること」、それから「俺自身が面白いと思うこと」という前提があった。

 その中で、ある日の投稿動画に「メンバーシップを始めます」という内容が並んだ。
 メンバーシップとは何かという説明から始まり、登録するとどんな利点があるか、どんなものを提供するか、対価としていただく費用は何かということを全て説明し、彼はこう締めた。

「安心してくれ! この金額が高いと思う人には絶対に面白くない! 正直、俺も面白いと思ってないけど、このことにすら価値があると思ってくれる人が観てくれたらそれでいいんだ」
※彼のメンバーシップの金額は月額4桁円であることを明記しておく。

 笑い転げながら、僕は彼のメンバーシップに登録したことを覚えている。
 だからこそ僕は言う。お金を対価として支払う上で、あなたは「つくるひと」として自分の何を「見る人」に差し出すのか。
 それを隠さずに見せる時、価値があると感じた「見る人」は、あなたに手を差し伸べるものだ──と。

 もうひとつは「まず金銭を先に求め、消費を強制する仕組みを設計する人」。
 先ほどの「つくるひと」の事例が「見る人」との信頼の会話を続けるならば、こちらのタイプは関係を一方的に区切り、自分にとってのメリットやデメリットを声高々に宣言してしまうことを優先する人だ。

 例えばブロガーや動画投稿者の中で「毎日投稿」を謳い、それを自分の誇りとして掲げる人がいる。
 それが「つくるひと」側の自分の支えとしてあるだけなら良いが、「繰り返される連続投稿の数字」はやがて「見る人」を飽きさせ、「日常の時間の消費」に付き合わされている感覚に陥らせることがある。

 「私には継続力という誇りがあります!」という名乗りだけでは、人はついてこない。
 「皆勤賞であることを自己紹介のひとつにはしても、自分の生き様に据えるな」と僕は説く。
 なぜならこれは、「皆勤賞が破綻したとき」に、「つくるひと」は自分に無価値感を得ることになるから。
 それを避けるために、「皆勤賞であること」にますます固執してしまうのだ。

 そしてこのふたつのタイプのどちらが長く支持されるかは、想像に難くないと僕は思いたい。

 ──大幅に話が脱線してしまったが、ウェブ広告の話に戻そう。

 広告だらけのページは、読者の注意を商品化する。
 ページを開いた瞬間から「あなたの視線は売り物ですよ」と宣言しているようなものだ。
 対して、有料会員制を掲げるなら、それは受け手に明確な“約束”を示すべきだ。
 「つくるひと」がすべきことは、単に「ここだけ有料です」という提示ではなく、「有料にすることで自分の何を届けるのか」を明確に言語化する責任がある。

 僕が嫌いなのは、「金を払え」とだけ告げる態度だ。
 誰が払うのか、何を払うのか、払うことで何が変わるのかを提示しないまま、有料会員の専用の入り口と柵を置く。
 これでは、読者はただの財布にされてしまう。
 情報と読者の間にあるのは信頼だ。対価の有無は、その信頼の上で、読者の自己価値の元で判断されるべきだ。

 では、僕のように、対価を求めない発信は単なる理想主義となるのか。
 ──いいや。むしろ戦略だ。
 無料で届ける覚悟には、次のような利点がある。

  • 「見る人」の価値観の補足情報として受け止めやすくなる。
  • 「見る人」や「つくるひと」の思索や議論が生まれやすくなる。
  • 「受け取りの自由」を守ることで、結果として「見る人」と「つくるひと(ここでは僕のこと)」の長期的な信頼が育つ。

 ただし「無料」は責任の放棄ではない。
 無料で届ける代わりに、発信者は別の責任を引き受ける。
 言葉を丁寧にすること、誤情報を出さないこと、読者に敬意を払うこと。
 つまり、報酬を目に見える金銭から、「発信者自身の発信方法と信用」へと転換する覚悟だ。

 「そんなのでやっていけるのか? 単なる無料のボランティアじゃないか」という懸念や不安もあるだろうから、そういう方向けの具体的な運用イメージを提示しておく。
 本文は無料で公開し、深掘りした分析や制作ノート、一次資料は別枠で提供する。
 あるいは、「価値があると感じた人」から、投げ銭や任意のサポートを受け付ける形にする。
 重要なのは「見る人につくるひとの我欲を強制しないこと」。
 読者が「払いたい」と思わせる仕組みを作ることが肝だ。これまでにも散々述べているが、強制は信頼を壊す。

 ちなみに余談としてだが、僕はこれらのうち、「金銭や物品の授受」だけは絶対に踏み込んでいない。
 代わりに、ブログランキングへのバナーを置いておいて、「もしもいいと思ったら気軽にポチってもいいし、ポチらなくてもいい。『こいつの投稿面白いな』と思ったら、ブログランキングでフォローしてくれたらいつでも見られるよ」という提示だけを行っている。

 登録もバナーを踏むことも強制しないのは、その行為に僕自身が執着を抱いていないのと、「提示しなくても協賛してくれる、本気で支援を考えている人」の確認になるからだ。
 ぶっちゃけ言うが、「お願いをして行動に移してくれた人」と、「お願いなしでも行動に移してくれる人」は同価値ではない。
 両者の「行動に移してくれた尊さそのもの」は同じだが、「受容的に動いたか、それとも能動的に動いたか」の違いがある。
 そして後者であるほど、「見る人」にとって縛りや枷になる確率は限りなく低く、「自分はこの人のことを好きで見ている」という肯定的価値観になりやすい──僕は本気でそう考えている。

 また、今の時代において、広告を設置することそのものを全否定するつもりはない。
 しかし、広告の配置の仕方や表示の頻度、そしてデザインの尊重は問われるべきだと僕は思っている。
 ポップアップで視界を奪い、記事を読めなくする広告は、読者に対する裏切り行為とすら言える。
 広告で収益を上げるなら、読者の体験を犠牲にしない最低限のルールを守ってほしい。

 要するに、僕はこう言いたい。
 情報発信は「商品」でも「ショー」でもなく、誰かとの関係を築くということだ。
 関係を金銭で閉じることもできるし、開くこともできる。
 ここで問うべきは「どちらが短期の利益を得られるか」ではなく、「どちらが長期に関係を育てられるか」だ。

 広告は本質的に、発信者の声を切り取る“第三者の声”である。
 広告が混ざることで、発信された情報の純度は下がり、言葉の温度が薄まる。
 それを許容するかどうかは、発信者の倫理に委ねられている。

 だから僕は、自分の発信に広告を置かない。
 綺麗ごとではなく、選択の結果としてそうしている。
 広告を拒むことは、経済的に賢い選択ではない。
 けれど、思考の純度を保つためには、必要な選択だと思っている。

 今や広告は、ネットの呼吸音のようにどこにでもある。
 だが、そんな世界でこそ、問わねばならない。
 ──それでも、あなたは信念を掲げられるか?
 ノイズの中に沈まず、「この言葉を伝えたい」と言い切れるか?
 多数派の容認に溶けず、たったひとりでも声を保つ勇気を持てるか?

 広告のない場所は、静かだ。
 その静けさの中で、ようやく“本当の言葉”が響く。
 僕は、そこにしか信頼を置かない。


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