創作をしていると、誰しも一度は「もっと多くの人に見てほしい」と願う瞬間がある。
それは自然なことだし、悪いことでもない。
けれど、その願いが「数字」や「反応」を伴うと、伝える行為そのものが別の意味を帯び始める。
──これは、ある配信者の話。
彼は長く配信を続けてきた。真面目で、誠実で、何より人柄が良い。
リスナーとの距離感も大切にしていて、誰にでも丁寧に接している。
「こんなに人当たりがよくて、誠実な人がなぜウケない? 他の過激な配信者に慣れすぎて、人を見る目がないのか?」
彼と出会った当初の僕はそう思っていた。
けれど、彼の配信やSNSを含めたインターネットの発信内容を見ているうちに、だんだん彼がウケない理由が分かってきた。
最初はほんの些細な違和感だった。
「この配信のアーカイブはこちらです」──それだけの告知に、アフィリエイトリンクが添えられるようになった。
さらにその数週間後、記事の冒頭から「有料部分はこちら」という形式が導入された。
それは彼なりに、活動を続けるための工夫だったのかもしれない。
だが、問題は「伝え方」だった。
彼の文章ベースに落とされる投稿には、「どうしてそれをやるのか」という背景や思いが、まるで抜け落ちているのだ。
配信の中での彼は、必ず「楽しかった」「こう感じた」「こうしてみたい」──その素直な一言を口にする。
これがリスナーにとって、「彼のことを応援したい」と思う、一番の共感を湧き起こさせる言葉だ。
少なくとも──この言葉を聞いて「この人は誠実で良い人だ」と思っている人間が、現にここにいる。
けれど、その熱が数字と並んだ瞬間、言葉の体温が下がっていくのだ。
ブログでもよくある罠だが──「こういう検索履歴があったのでこの記事を書きました!」みたいなメタな視点から記事を書くと、「この人盗み見てる!?」と誤解を受けて、せっかく手に入れたひとりの読者を失い兼ねない。
同様に、「これだけ月間PV数が伸びました!」と書くと、「え? そこが誇りなの?」と読者が冷めて離れてしまうということもよくある。
これらが、ブロガーが貴重な読者層を失っていく根本的原因であるということを、僕は嫌というほど知っている。
これらを僕は思い返しながら、彼は「伝える」ことの先にある“満たされたい”という感情を、混同しはじめているのではないかと見受けた。
──誰かに見てほしい、支えてほしい。
それは創作者として、当然の願いだ。
けれど、“伝えること”と“満たされたいこと”は同じではない。
前者は他者のための行為であり、後者は自分を癒すための行為だ。
その境界を越えてしまうと、どんなに誠実な人でも、受け取る側には「お金が目的なんだな」と映ってしまう。
リスナーとしては新参者の僕には推測しかできないが、彼の配信の原点はもっと純粋なものだったんじゃないだろうか。
ゲームを通して、人と笑顔を共有したい。
「こんな出来事があったんだ」と語ることが、誰かの日常の一部になる。
そのささやかな幸福こそが、彼の魅力だったのではないかと思う。
だからこそ、彼にはもう一度、あの頃の“伝える喜び”を思い出してほしい。
「伝える」は「届ける」であって、「奪う」ではない。
そこに信頼があれば、人は自然と支えたくなる。
熱意を見せることと、欲を見せることは違う。
伝わるとは、“自分の言葉の奥にある気持ち”を丁寧に見せることだ。
創作の世界で、伝え方は作品そのものを左右する。
どんなに素晴らしいアイデアでも、伝え方を誤れば、意図と真逆の印象を与える。
逆に、言葉に心があれば、拙い文章でも人は動く。
彼の事例を通して、僕は改めて思った。
「伝えること」は、作品の外側にあるもうひとつの創作だ。
数字は嘘をつかない。でも、数字は心を映さない。
だからこそ、言葉が要る。気持ちを届けるための、最初の道具としての言葉が。
「つくるひと」が抱えるべき「伝えること」の本質とは、つくるひと自身の心を見せることだ。
付記:
本記事は、過去に観察した出来事をもとに再構成したエッセイです。
特定の個人・団体を批判する意図はなく、「発信と表現のバランス」についての思索を目的としています。
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