描かれない世界 ── プレイヤーの手を離れたあとで

2025年11月3日月曜日

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 多くの物語は、「神の視線」で終わる。
 画面の向こうで見守る者──つまりプレイヤー、あるいは作者が「これで終わりだ」と宣言する瞬間に、世界は静止する。
 だが僕は時々思う。そのあと、あの世界はどうなったのだろう?

 UNDERTALEという作品がある。作品自体は少し前に話題になったので、もしかすると知っている人も多いかもしれない。
 初見の人には申し訳ないが、これは最終エンディングのネタバレを含む話となる。

 Pルート(True Pacifistルート)のエンディングにて、プレイヤーの手を離れた主人公は、誰の指示も受けずに歩き出す。
 けれど──プレイヤーがGルートをクリアしている場合、最後のシーンで、主人公の中に沈む「悪魔」(キャラ──あなたが主人公につけた名前を名乗る存在)がこちらを見つめ返してくる。
 まるで「あなたの罪のおかげで、私も本来の目的を達成できた」と告げるように。
 そして、物語は不穏な写真と共に終わりを告げる。

 このUNDERTALEの不穏な終わりに対する考察は少ない。
 その中で僕は考える。
 これは、神の手という制御を離れたことで、『始まりのニンゲン』の本来の目的であった、同族への復讐が果たされたのではないか──と。

 始まりのニンゲンは、本来アズリエルの身体に憑依することで、ニンゲンたちに復讐しようとした。
 しかし、アズリエルは地下世界へ逃げ帰り、そして後に命を落とした。
 始まりのニンゲンは、プレイヤーが「タマシイの取引に応じる」まで、その復讐を延期することとなる。

 ──僕はそう考えているが、実際のところ、作者であるトビー・フォックス氏がそこまで考えていたかは分からないし、解釈のひとつという名の僕の妄想に過ぎないことは、明記しておく。

 神の手を離れる──という描写がある作品と言えば、Xenobladeも同じだ。例のごとくネタバレを含むので、初見の人は薄目で読んでほしい。

 Xenobladeの世界は巨神と機神に創られた世界が舞台だ。
 主人公のシュルクは巨神であるザンザを斬り捨てて、真の世界の創造主であるアルヴィースの提案を受けて、世界は「神などいない世界」として新たな時代を迎える。
 創造主の意識が消えたその瞬間から、世界は“誰のためにも存在しない”場所になる。

 そして、その瞬間こそが「自立」の始まりなのだが──その始まりを見せたところで物語は終わってしまう。
 Xenobladeの場合、続編の2でも初作のつながりをほのめかすシーンが含まれているが、2もまた、創造主が消滅したあと、新しい世界の始まりを見せてから、やはり同じように物語は終わるのだ。

 僕は思う。
 物語の登場人物たちは、創り手の手を離れた瞬間から、「描かれない世界」を生きる責任を負う。
 だが、そこはもう誰にも観測されることはない。
 神がいない世界とは、「永遠に記録されない生」のことだ。

 ──だからこそ、創作者はその手前で筆を止める。
 観測の終わった世界を描くことは、物語を“死後”の世界に送り出すことと同じだからだ。
 それはもはや「物語」ではなく、「記憶」としてしか残らない。

 けれど僕は、そこにこそ創作の真の問いがあると思っている。
 神の手を離れたあとも、生き続ける物語は存在するのか。
 もしその世界が、誰の目にも映らずとも息づいていると信じられるなら、それはもはや“作者の作品”ではなく、“存在としての世界”だ。

 描かれない世界を信じられるか。
 観測されなくなったあとにも、物語が続くと信じられるか。
 それが、「つくるひと」としての真骨頂だと僕は思う。


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