多くの物語は、「神の視線」で終わる。
画面の向こうで見守る者──つまりプレイヤー、あるいは作者が「これで終わりだ」と宣言する瞬間に、世界は静止する。
だが僕は時々思う。そのあと、あの世界はどうなったのだろう?
UNDERTALEという作品がある。作品自体は少し前に話題になったので、もしかすると知っている人も多いかもしれない。
初見の人には申し訳ないが、これは最終エンディングのネタバレを含む話となる。
Pルート(True Pacifistルート)のエンディングにて、プレイヤーの手を離れた主人公は、誰の指示も受けずに歩き出す。
けれど──プレイヤーがGルートをクリアしている場合、最後のシーンで、主人公の中に沈む「悪魔」(キャラ──あなたが主人公につけた名前を名乗る存在)がこちらを見つめ返してくる。
まるで「あなたの罪のおかげで、私も本来の目的を達成できた」と告げるように。
そして、物語は不穏な写真と共に終わりを告げる。
このUNDERTALEの不穏な終わりに対する考察は少ない。
その中で僕は考える。
これは、神の手という制御を離れたことで、『始まりのニンゲン』の本来の目的であった、同族への復讐が果たされたのではないか──と。
始まりのニンゲンは、本来アズリエルの身体に憑依することで、ニンゲンたちに復讐しようとした。
しかし、アズリエルは地下世界へ逃げ帰り、そして後に命を落とした。
始まりのニンゲンは、プレイヤーが「タマシイの取引に応じる」まで、その復讐を延期することとなる。
──僕はそう考えているが、実際のところ、作者であるトビー・フォックス氏がそこまで考えていたかは分からないし、解釈のひとつという名の僕の妄想に過ぎないことは、明記しておく。
神の手を離れる──という描写がある作品と言えば、Xenobladeも同じだ。例のごとくネタバレを含むので、初見の人は薄目で読んでほしい。
Xenobladeの世界は巨神と機神に創られた世界が舞台だ。
主人公のシュルクは巨神であるザンザを斬り捨てて、真の世界の創造主であるアルヴィースの提案を受けて、世界は「神などいない世界」として新たな時代を迎える。
創造主の意識が消えたその瞬間から、世界は“誰のためにも存在しない”場所になる。
そして、その瞬間こそが「自立」の始まりなのだが──その始まりを見せたところで物語は終わってしまう。
Xenobladeの場合、続編の2でも初作のつながりをほのめかすシーンが含まれているが、2もまた、創造主が消滅したあと、新しい世界の始まりを見せてから、やはり同じように物語は終わるのだ。
僕は思う。
物語の登場人物たちは、創り手の手を離れた瞬間から、「描かれない世界」を生きる責任を負う。
だが、そこはもう誰にも観測されることはない。
神がいない世界とは、「永遠に記録されない生」のことだ。
──だからこそ、創作者はその手前で筆を止める。
観測の終わった世界を描くことは、物語を“死後”の世界に送り出すことと同じだからだ。
それはもはや「物語」ではなく、「記憶」としてしか残らない。
けれど僕は、そこにこそ創作の真の問いがあると思っている。
神の手を離れたあとも、生き続ける物語は存在するのか。
もしその世界が、誰の目にも映らずとも息づいていると信じられるなら、それはもはや“作者の作品”ではなく、“存在としての世界”だ。
描かれない世界を信じられるか。
観測されなくなったあとにも、物語が続くと信じられるか。
それが、「つくるひと」としての真骨頂だと僕は思う。
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