誠実な人が言葉を失う瞬間 ── 「正しさ」より燃えやすさが選ばれたとき

2025年12月22日月曜日

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 これは、“誰かが悪かった”と断じるための話ではない。
 ただ、誠実であろうとした人が、言葉を使えなくなっていった過程の記録として綴る。

 誠実な人ほど、言葉を失いやすい場所がある。
 それは“正しさ”が評価される場所ではなく、“燃えやすさ”が選ばれる場所だ。

 情報を集め、観察し、検証し、丁寧にまとめる──。
 本来、それは信頼を積み上げる行為のはずだった。

 だが、情報が人から人へ渡る速度が速くなりすぎた世界では、その誠実さはしばしば“都合のいい材料”に変わる。

 ある記録者は、そういう人だった。
 彼女は争いを避け、距離感を大切にし、情報を必要とする相手を選んで言葉を渡していた。

 分かる人にだけ深く、分からない人には無理に渡さない──。
 それは誰かを排他するためではなく、誤解を生まないための配慮だった。

 だが、彼女の情報を受け取った一部の群衆は、その配慮を守らなかった。

 善意で渡した言葉は、いつの間にか持ち主の手を離れ、誰かの文脈で切り取られる。

 そして、別の誰かの怒りに添えられ、気づいたときには“ある人を責める理由”として置かれている。

 そこに、情報を最初に渡した人の意思や配慮はもう残っていない。

 こうなってしまった環境で重要なのは、事実の精度ではなく、“誰を悪者として叩けるか”という一点だけになる。

 「つらかった」という誰かの声は、いつの間にか、「だから別の誰かを責めていい」という話にすり替わる。

 誰かを守るために出たはずの言葉が、次の誰かを傷つけるための免罪符になる。

 怒りや憎悪は連鎖し、複雑だった関係性は“誰かを叩くための集団”という単純な形にまとめられていく。

 彼らが用意した舞台に“説明しない人”や“反論しない人”が立たされたとき、その沈黙は群衆から見て、“悪に加担する側=同罪”として扱われる。

 誠実な人ほど、説明しすぎない。
 誠実な人ほど、相手の良心を信じてしまう。

 けれど、声の大きさだけが正義になる場所では、その慎重さは“何も言わない人”として処理されてしまう。

 彼女は声を上げなかった。否定もしなかった。
 誰かを晒し返すこともしなかった。

 代わりに、少しずつ言葉を減らし、やがて彼女はいずこかへ姿を消した。

 ここで重要なのは、「誰が正しかったか」ではない。
 「なぜ、誠実な人が言葉を閉ざし、身を引くことを選んだのか」だ。

 情報そのものが中立でも、受け取る側の解釈は中立ではない。
 善意もまた、受け取る側の解釈次第で形を変える。
 そして情報が発信される際には、書き手の解釈が混ぜられ、一次情報の中立性はどんどん薄められていくのだ。

 ここでもしも、情報が燃えやすい舞台の演出(シナリオ)として回収された瞬間、持ち主の手を離れ、制裁のための物語の舞台装置に成り下がる。

 彼女が何も言わなくなったのは、負けたからではない。
 これ以上、言葉が歪められるのを見続けられなかっただけなのだろう──と、僕は思う。

 舞台から消えることは、逃げではない。
 それは「これ以上壊されないための距離」だったのかもしれない。

 だからこれは、誰かを糾弾する記録ではない。
 誠実な人が、なぜ居場所を消したのかを考えるための記録だ。

 あの場所で求められていたのは、事実でも説明でもなく、すぐに叩けて、すぐに盛り上がる分かりやすさだった。

 誠実な言葉や感情──人が持つ善意の心が、居座れる余地はあの場所にはなかった。

 誠実であることは、いつも報われるわけではない。
 むしろ、燃えやすい環境の中では、静かすぎるという理由だけで排除されることすらある。

 それでも、誠実さそのものが間違っていたわけではない。
 言葉を失ったのは、彼女の弱さではなく、その言葉を受け止める場所が壊れていたからだ。

 この記録がここに残るのは、彼女が確かにそこにいて、確かに言葉を選んでいたという事実があったからだ。

 それだけは、消させてはいけない。


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